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大友家
大友宗麟 おおとも そうりん (1530~1587) 大友家
大友家21代当主。キリシタン大名として有名で諱は義鎮。青年期に父・義鑑の謀略によって廃嫡されそうになるが、義鎮派の家臣らによって引き起こされた「二階崩れの変」で、義鑑や後継者候補の塩市丸らが殺害され当主の座につく。当主就任後は、九州北部に勢力を広げ、足利幕府への働きがけで豊前、豊後、肥前、肥後、筑前、筑後と六ヶ国の守護となり、さらに九州探題にも任命されて大友家の全盛期を創り出した。しかし、高城川(耳川)の戦いで島津家に大敗して、その繁栄に陰りが見え始め、その後も北上する島津勢相手に終始劣勢の状態が続いて滅亡寸前まで追い込まれた。そのため、やむなく大坂城に出向いて豊臣秀吉と謁見し、臣従と引き換えに援軍の約束を取り付けて滅亡を免れた。秀吉の九州征伐軍によって状況が良くなっていく中、チフスと思われる病気で亡くなった。
大友義鑑 おおとも よしあき (1502~1550) 大友家
大友家20代当主。宗麟の父。筑前、豊後の守護。家督継承後、父・義長が進めてきた肥後の名族・菊池家の乗っ取りを継承するが、父の死後、その一環として菊池家に養子に入っていた弟・重治(のちの義武)と対立した。これを収拾するため、重治の後ろ盾であり、九州北部の覇権をかけて戦っていた大内義隆と和睦。重治を肥後南部に追いやり、幕府に働きかけて肥後の守護職を獲得した。嫡男・義鎮(宗麟)を嫌い、三男・塩市丸を溺愛。義鎮を廃嫡して塩市丸に家督を譲ろうとしたため、義鎮派の家臣らによって殺害された(二階崩れの変)。通説では義鎮は無関係とされるが、最近では関与が疑われている。
大友義統 おおとも よしむね (1558~1610) 大友家
大友家22代当主。義鎮(宗麟)の子。父・宗麟の隠居により家督を継ぐが、家督継承後も宗麟の影響は大きかった。当主となってから迎えた高城川(耳川)の戦いで島津家に大敗。その後も島津家相手に終始劣勢で滅亡寸前まで追い込まれるが、豊臣秀吉の九州征伐軍に救われ、九州征伐後に豊後一国を安堵された。しかし、朝鮮出兵で誤報を信じて撤退してしまうという失態を演じて改易される。関ヶ原の戦いでは西軍について豊後に攻め込み再興を狙うが、黒田孝高(官兵衛)と細川忠興の重臣・松井康之の軍勢に敗れて降伏。その後、流罪となった。
大友親貞 おおとも ちかさだ (?~1570) 大友家
大友重治(菊池義武)の子。大友義鑑の子とも。宗麟の従弟、または弟ということになる。父親がはっきりとしていないため、どのような経緯で宗麟に仕えるようになったかは不明。1570年、龍造寺隆信を討伐するため、総勢6万の総大将として佐嘉城攻略を命じられたが、大軍であることに油断して、総攻撃の前日に酒宴を開いたところを龍造寺家の名参謀・鍋島信生(のちの直茂)の提案による奇襲攻撃にあい討死した(今山の戦い)。
臼杵鑑速 うすき あきすみ (1518~1575) 大友家
大友家臣。豊後三老のひとり。加判衆として義鎮(宗麟)を補佐、内政に携わっただけでなく、外交でも活躍した。中国地方の覇者となった毛利元就が筑前に侵攻してきた際には、戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理らと共に戦闘指揮官として毛利軍撃退にも貢献している。鑑速の死後、宗麟の義兄・田原紹忍の意見が重用されるようになり、高城川(耳川)の戦いでの大敗に繋がる。大友家の名将・立花道雪は「吉岡宗歓(長増)、鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と家臣団に書き送るほどの影響力があった。
志賀親次 しが ちかつぐ (1566~1607) 大友家
大友家臣。母が大友義鎮(宗麟)の娘で、義鎮と同じキリシタンでもあったため重用された。九州統一を目指す島津勢が北上してくると、島津家との徹底抗戦を決意。豊臣秀吉の援軍到着まで居城・岡城に籠って島津義弘や新納忠元の猛攻を幾度も撃退し、義弘から「天正の楠木」と絶賛された。朝鮮出兵では誤報を信じて撤退を進言してしまい、それが元で大友家は改易され所領を失う。関ヶ原では大友義統に従い、大友家再興をかけて西軍として参加するが、黒田孝高(官兵衛)らに敗北した。以後は福島正則、小早川秀秋、毛利輝元に仕えた。
高橋鑑種 たかはし あきたね (1529?~1579) 大友家
大友家臣。大友家の庶流・一萬田家の出身。宗麟の弟・晴持(のちの義長)が陶晴賢(隆房)によって大内家の当主として迎えられると、これに随行した。義長が毛利元就に滅ぼされた時は使者として帰国しており助かったという。帰参後は高橋家を継いで宝満城督となる。しかし、兄を宗麟に謀殺されるなど遺恨があり、毛利家に内通した。多々良浜の戦い後、毛利軍が筑前から撤退すると孤立してしまい宗麟に降伏する。しかし、罪は許されず、助命はされたが家督を奪われ毛利家へ追放された。家督は吉弘鑑理の次男・鎮理(紹運)が継いだ。
高橋紹運 たかはし じょううん (1548~1586) 大友家
大友家臣。吉弘鑑理の次男。立花宗茂の父。立花道雪と共に大友家の双璧を成した勇将。初名は吉弘鎮理。毛利家と通じて謀反を起こした高橋鑑種を父や道雪に従って降伏させたのち、当主の座を剝奪された鑑種に代わって高橋家の名跡を継いだ。高城川(耳川)の戦いでの大敗後(紹運は参戦していない)、多くの重臣を失った大友家を離反する者が続出する中、道雪と共に大友家を守るために戦い続け、その間に道雪に請われて、嫡男・統虎(のちの宗茂)を養子に出した。道雪の死後、肥前の龍造寺家を降した島津家の猛攻を受けることになるが、大友家への忠義を貫き、岩屋城に763名の将兵と立て籠もって、3万の大軍を相手に半月あまり戦い、将兵全員と共に壮絶な討死を遂げた。しかし、その粘りが豊臣秀吉の九州上陸の時間稼ぎとなり、島津家の九州統一の夢を阻むことになる。のちに紹運の事を聞いた秀吉は「乱世の華」と賞賛し、その死を惜しんだ。
高橋統増 たかはし むねます (1572~1617) 大友家
大友家臣。高橋紹運の次男。立花宗茂の弟。晩年は立花直次と名乗った。兄が立花道雪の婿養子となったため、高橋家の嫡男となった。島津家の九州統一戦では、父・紹運が岩屋城、兄・宗茂が立花山城を守るなか宝満山城の守備についが、岩屋城落城後に島津家の降伏勧告を受け入れ捕虜となった。豊臣秀吉の九州征伐後は、兄と共に豊臣直臣となって一万八千石を領し、朝鮮出兵などで活躍した。関ヶ原では西軍につき改易となるが、のち兄と共に徳川秀忠に召しだされ五千石で旗本となった。
田北鎮周 たきた しげかね (1543~1578) 大友家
大友家臣。勇将として知られ、毛利家と結んで反旗を翻した立花鑑載の反乱鎮圧などで活躍した。1578年の高城川(耳川)の戦いでは先陣をつとめたが、抜け駆けをして突撃した結果、島津勢の釣り野伏にかかって大敗のきっかけをつくってしまい、自身も討死した。日向での行軍中、主君・宗麟はキリスト教に傾倒するあまり寺社仏閣を破壊してまわっており、兵士の士気が下がっていたいわれる。それを鼓舞するための抜け駆けだったという。
立花道雪 たちばな どうせつ (1513~1585) 大友家
大友家臣。「鬼道雪」の異名をもち、生涯37度の合戦で一度も遅れをとらなかったといわれる大友家随一の名将。初名は戸次鑑連。若い頃に落雷にあい、左足が不自由になったが、千鳥の太刀で雷を斬り、その後も輿に乗って軍を指揮したことから「雷神」と呼ばれ畏怖されたという。初め大友義鑑に仕えたが、義鑑が義鎮(宗麟)の廃嫡を考えたことで起きた「二階崩れの変」では義鎮を支持して、その家督相続に貢献した。毛利家が筑前に侵攻してくると前線指揮官として中心的な役割を果たして撃退に貢献。その功により立花山城の城督となって立花家の名跡を継いだ。自身は参加しなかった高城川(耳川)の戦いでの敗戦後、多くの重臣を失った大友家からの離反者が後を絶たない中、大黒柱として高橋紹運と共に当主・義鎮を支え続け、その間に紹運の嫡男・統虎(のちの宗茂)を娘・誾千代の婿に迎えて跡取りとした。その後も筑後方面で活躍したが、1585年、柳川城攻略中に陣中にて病没した。
立花宗茂 たちばな むねしげ (1567~1642) 大友家
大友家臣。高橋紹運の子。豊臣秀吉に「忠義、武勇ともに鎮西一」と賞賛された名将。初名は高橋統虎。元服後まもなく、立花道雪に将器を見込まれ道雪の娘・誾千代の婿養子となって立花家の跡取りとなった。道雪が亡くなると、立花山城主として、岩屋城を守る実父・紹運と共に九州統一を目指す島津家と戦うことになる。紹運奮戦の甲斐もあって、豊臣秀吉の援軍到着まで立花山城を守り抜き、島津勢が撤退を始めると追撃戦を展開して大戦果を挙げる。続く九州征伐でも活躍し、その功で筑後柳川13万石の大名となった。その後、朝鮮出兵に参加。碧帝館の戦いや蔚山城の戦いでも活躍した。関ヶ原の戦いでは西軍についたため、敗戦後に改易となる。しかし、数年後、人柄を見込まれて徳川秀忠の御伽衆として召し出され、大阪夏の陣では秀忠付の軍師参謀として見事な戦術眼をみせた。1620年、柳川10万石を与えられ、関ヶ原で西軍について改易された大名の中で唯一、旧領復帰を果たす。晩年には島原の乱にも参陣し、「武神の再来」と賞賛された。
小野鎮幸 おの しげゆき (1543~1609) 立花家
立花家臣。立花双璧のひとり。智勇兼備の将と伝わる。由布惟信の推薦で立花道雪に仕え、道雪死後も宗茂に仕えて各地を転戦し活躍した。関ヶ原の戦い後に宗茂が改易されると、宗茂主従が一時世話になっていた加藤清正のもとに残り家臣となったが、浪人となった宗茂に度々お金を送った。宗茂が旧領・柳川に復帰を果たした時には既に亡くなっていたが、子孫は再び立花家に仕えた。
由布惟信 ゆふ これのぶ (1527~1612) 立花家
立花家臣。立花双璧のひとり。元は大友家臣だったが、家督を弟に譲って立花道雪の家臣となった。道雪、宗茂の二代に仕えた猛将で、数々の合戦に参加し、一番槍、一番乗りの手柄を多く挙げた。関ヶ原の戦い後、宗茂が改易され浪人となっても引き続き仕え、陸奥棚倉1万石で宗茂が大名復帰を果たすと、江戸に詰めることが多かった宗茂に代わり、藩政を司った。
立花鑑載 たちばな あきとし (?~1568) 大友家
大友家臣。立花山城主。立花家は大友家の庶流だが、養父・鑑光が謀殺されるなど、宗家とは遺恨があり、1565年に謀反を起こした。この謀反は、のちに許されて立花山城主に復帰するが、68年に再び謀反を起こす。この時は毛利家と結んだ秋月種実や高橋鑑種に呼応したものだったが、立花山城を重要視した大友宗麟が戸次鑑連(立花道雪)らに命じて早急な鎮圧を求めたため、激しい猛攻にあい自害に追い込まれた(処刑とも)。毛利家が筑前から撤退したのち、鑑連(道雪)が城督として立花山城に入り立花の名跡を継いだ。
田原紹忍 たはら じょうにん (?~1600) 大友家
大友家臣。諱は親賢。妹が宗麟の継室ということで重用され、豊後三老最後の生き残り臼杵鑑速が亡くなった後は、国政を任された。高城川(耳川)の戦いでは、全軍の総指揮を任されたが、大敗してしまい、その責任を取って所領の一部を没収された。しかし、その後も大友家に忠節を尽くし、九州統一を狙う島津勢に抵抗した。朝鮮出兵での不始末で主君・義統が改易されると、中川秀成の与力となる。関ヶ原の戦いでは西軍として挙兵した義統の元へ馳せ参じたが敗れ、中川家に帰参するも太田一吉との戦いで討死した。
角隈石宗 つのくま せきそう (?~1578) 大友家
大友家臣。義鑑、義鎮(宗麟)の二代にわたって仕えた。兵法、占術、気象、あらゆることに精通し、義鎮の軍師的存在だったといわれる。大友家随一の猛将・立花道雪も石宗に師事したという。二階崩れの変で義鎮が家督を継いだ後は、大友家での復権を狙った義鎮の叔父・菊池義武の反乱鎮圧や豊前の平定戦で活躍した。しかし、1578年に参加した高城川(耳川)の戦いで討死する。戦うことに反対し、義鎮に諫言したが聞き入れてもらえず、自ら著した兵書をすべて燃やしてから出陣したと伝わる。
利光鑑教 としみつ あきのり (?~1586) 大友家
大友家臣。宗魚と号した。義鎮(宗麟)、義統の二代にわたって仕え、立花道雪の妹を娶った。清廉な勇将と伝わる。高城川(耳川)の戦いで大友家が敗北し、衰退の兆しが見え始めても忠節を尽くし、島津家が豊後に侵攻してきたときも、鶴賀城に籠って島津家久の軍勢をを大いに苦しめた。仙石秀久率いる豊臣軍の来援で家久の軍が城の包囲を解くと、それを確認するため登った物見櫓で流れ矢に当たって討死してしまった。
吉岡長増 よしおか ながます (1499~1573) 大友家
大友家臣。豊後三老のひとり。吉岡家は大友家の庶流で、長増は宗麟時代に最長老として重きをなした。同じ豊後三老のひとり・臼杵鑑速と外交で活躍するとともに大内家との抗争では各地を転戦して武功も挙げた。大内家を滅ぼした毛利家が筑前に攻め込んで来ると、大内家の生き残り大内輝弘を周防に侵攻させると同時に、尼子家の遺臣・山中幸盛(鹿介)を動かして毛利家の背後を脅かし、毛利軍を撤退させる活躍をした。
吉弘鑑理 よしひろ あきただ (1515~1571) 大友家
大友家臣。豊後三老のひとり。高橋紹運の父。吉弘家は「大友家の忠臣」として誉れ高い家柄として知られる。鑑理もその名に恥じない忠臣で義鎮(宗麟)の信頼厚く、側近として文武両面で活躍した。筑前に攻めてきた毛利家を戦闘指揮官として立花道雪と共に撃退するなど、大友家の主要な戦いにはほとんど参加して武功を挙げたが、龍造寺隆信との今山の戦いののち、まもなくして病没した。
吉弘鎮信 よしひろ しげのぶ (?~1578) 大友家
大友家臣。鑑理の嫡男。弟には高橋紹運がいる。父や戸次鑑連(道雪)に従い、筑前に侵攻してきた毛利家との戦いで活躍した。父の死後、家督を継いで立花山城督となる。その後、戸次鑑連が立花山城督に任命されると、入れ替わりで本国へ帰還し宗麟の側近となった。1578年、宗麟に従った高城川(耳川)の戦いでは角隈石宗と共に慎重派の立場をとったが、強硬派・田北鎮周の抜け駆けによる混戦に巻き込まれ討死した。
吉弘統幸 よしひろ むねゆき (1564~1600) 大友家
大友家臣。鎮信の子。鑑理の嫡孫。立花宗茂の従兄にあたる。父・鎮信が高城川(耳川)の戦いで討死したため家督を継ぐ。主君・義統が文禄の役での不始末で改易されると、従兄弟である立花宗茂のもとに身を寄せ、立花家の将として慶長の役に参加した。関ヶ原の戦いでは旧主・義統のもとに馳せ参じて東軍につくように進言するが拒否されたため、西軍として黒田孝高(官兵衛)と戦い、黒田勢の先鋒を破るなど奮戦したが討死した。
龍造寺家
龍造寺隆信 りゅうぞうじ たかのぶ (1529~1584) 龍造寺家
「肥前の熊」の異名をもつ戦国大名。龍造寺家は、元々肥前や筑前の守護をつとめた少弐家の家臣。隆信は、その分家筋だったが、祖父・家純と父・周家が謀反の疑いで殺害され、一時没落した。曽祖父・家兼と筑後に逃れた隆信は、筑後の国人・蒲池鑑盛の助けをえて、のちに龍造寺宗家を継ぎ、主筋である少弐冬尚を攻め滅ぼして下剋上を成し遂げた。1570年、隆信の台頭を恐れた大友宗麟の大軍に佐賀城を包囲されるが、鍋島信生(のちの直茂)の進言による奇襲を成功させて和睦に持ち込み(今山の戦い)、それ以降は大友家との見事な掛け合いで徐々に勢力を拡大していく。その後、大友家が耳川(高城川)の戦いで島津家に大敗したのを機に大友家から完全に自立。本格的な勢力拡大に乗り出し「五州二島の太守」と呼ばれるまでになった。しかし、島津家に内通した有馬晴信を討つために出陣した沖田畷の戦いで、多くの重臣たちと共に島津家の名将・島津家久によって討ち取られてしまった。
龍造寺政家 りゅうぞうじ まさいえ (1556~1607) 龍造寺家
隆信の嫡男。1578年に父・隆信から家督を譲られるが、実権は隆信に握られていた。沖田畷の戦いで隆信が討死すると、祖母・慶誾尼と共に国政を行うが、重臣・鍋島直茂に頼ることが多く、九州征伐後に豊臣秀吉によって所領は安堵されるものの、直茂を気に入った秀吉の命により、直茂に国政を委ねることになった。秀吉死後も実権は直茂に握られ、それを憂いだ子・高房が殺傷事件を起こしてのち自害すると、それを追うように病没し、龍造寺宗家は断絶、遺領は直茂が継ぐことになり佐賀鍋島藩が立藩された。
江里口信常 えりぐち のぶつね (1548?~1584) 龍造寺家
龍造寺家臣。龍造寺四天王のひとりといわれる。もともと肥前千葉家に仕えたが、のちに鍋島家を経て龍造寺隆信の直臣となった。沖田畷の戦いでは、味方のふりをして敵陣に乗り込み、敵の総大将・島津家久を討ち取ろうとしたが、失敗して討ち取られた。家久から「無双の剛の者」と評された。
円城寺信胤 えんじょうじ のぶたね (?~1584) 龍造寺家
龍造寺家臣。龍造寺四天王のひとりといわれる。武勇に優れ、各地を転戦して武功を挙げた。沖田畷の戦いでは、主君・隆信の名乗りを挙げて、身代わりとなって討死するが、その甲斐もむなしく、隆信も討ち取られてしまった。
木下昌直 きのした まさなお (?~1610) 龍造寺家
龍造寺家臣。江里口信常や円城寺信胤にかわって龍造寺四天王に数えられることもあるが、二人と違って隆信の直臣ではなく、鍋島直茂の麾下で働き武功を挙げた。沖田畷の戦いでは、隆信の討死を聞くと、撤退する鍋島隊の殿をつとめて直茂を無事逃がし自身も逃げ延びた。朝鮮出兵でも直茂に従って渡海した。龍造寺宗家が断絶した後も子孫は龍造寺家を継承した鍋島家に仕え佐賀藩士として続いた。
成松信勝 なりまつ のぶかつ (1540?~1584) 龍造寺家
龍造寺家臣。龍造寺四天王のひとり。武勇に優れ、今山の戦いでは鍋島信生(のちの直茂)の指揮のもと、奇襲隊を率いて大友家の総大将・大友親貞を討ち取る武功を挙げ、主君・龍造寺隆信から感状を受けた。隆信が政家に家督を譲って隠居したのちも家老職をつとめ、隆信の隠居城・須古城の普請奉行もつとめた。沖田畷の戦いでは本陣に詰め、隆信を守って奮戦するが討死した。
百武賢兼 ひゃくたけ ともかね (?~1584) 龍造寺家
龍造寺家臣。龍造寺四天王のひとり。武勇に優れ、主君・隆信に「百人並みの武勇を有する」と評されて、百武姓を名乗った。龍造寺軍の中核を担って各地で武功を挙げたが、沖田畷の戦いで隆信を守るために奮戦して討死した。妻・円久尼も女傑として知られ、夫の死後、居城・蒲船津城に攻め寄せてきた立花道雪、高橋紹運の軍勢を撃退したことで知られる。
鍋島勝茂 なべしま かつしげ (1580~1657) 龍造寺家
鍋島直茂の長男。肥前佐賀藩初代藩主。父・直茂は龍造寺家臣であったが、豊臣秀吉に気に入られ、秀吉の命によって龍造寺家の国政を担っていたため、勝茂は幼少から大名世子の扱いを受けた。慶長の役では父と共に渡海し、蔚山城の戦いで活躍した。関ヶ原の戦いでは故あって西軍に属したが、父・直茂の急使により東軍へ寝返り、龍造寺家の所領は安堵された。1607年に龍造寺家が断絶すると、幕府の意向もあり、父・直茂の後見を受けて龍造寺家の遺領を受け継ぎ、肥前佐賀藩初代藩主となった。
鍋島直茂 なべしま なおしげ (1538~1618) 龍造寺家
龍造寺家臣。龍造寺隆信を「五州二島の太守」にまでのし上げた名参謀。隆信の従弟にあたるが、その才能に惚れこんだ隆信の母・慶誾尼が、直茂の父・清房に再嫁して二人を義兄弟にするほど期待された。その期待通り、今山の戦いで大友軍に奇襲をしかけて大勝したのをはじめ、様々な献策により龍造寺家を大友、島津と並ぶ九州屈指の勢力にまで押し上げた。1584年、沖田畷の戦いで、隆信が島津家久に討たれると、状況は一変、善後策の判断を一任され、島津家と事実上服従といえる和睦をした。しかし、裏では密かに豊臣秀吉と通じ、秀吉が九州に上陸すると、島津家と手を切って秀吉に従う。九州征伐後、龍造寺家は肥前を安堵され、直茂は秀吉の意向で龍造寺家の政を担うことになった。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、九州の西軍諸将と戦う。戦後、龍造寺家が断絶すると、その所領を受け継ぎ、鍋島佐賀藩が誕生するが、龍造寺家に遠慮して藩主の座に就かなかったため、藩祖と呼ばれた。